2022/07/04 のジャンプ

PPPPPP

 ラッキーが別人なんである。

 俺は前々から、具体的に言うと「ラッキーがピアノでレイジロウに理想の現実を見せた回」から、「この主人公はむしろ誰よりも悪役なのではないか」と思ってきたんである。何故かというと、レイジロウは自身の願望を満たされることによって、ラッキーに従ったように見えたからである。

 宗教の教祖は信者が常日頃から疑問に思っている世界の矛盾や悩みについて答えを出し、謎に満ちた世界観を充足するのだという。例えば、自分の人生には何故こんなにも苦痛があふれているのか。何故生きていなければならないのか。こういう疑問に「この世界は課題であって苦痛をいかに真面目に生きるのか、測られている」「必死になって生きていく姿勢を神様にお見せすることで、死後の幸福が約束されるのだ」と言ったりする。

 悩みのなくなった人間はより高い水準に到達することがある。これもわかりやすい理由があって、脳の容量を悩みに使わなくて済むようになるからである。貧すれば鈍するということわざがあり、困窮している人間は脳のパフォーマンスが発揮されないという研究もある。明日のパンをどうやって得ようかと考えざるを得ない人は、美味しいご飯と温かい布団が待っている人間よりも考えることが多い。単純に考えても、仕事のことだけ考えればいい人間と、仕事と生活について考えなければいけない人間なら、前者の方が自由で賢いのである。

 ラッキーは現実には起きえない願望をピアノを聞かせることで満たし、その人間を悩みから開放する。実際、レイジロウやミーミンはラッキーのピアノによって悩みを解決され、自身の能力をより高い水準で提示できるようになっている。どれだけ天才であっても悩みから開放されることには意味があり、それに感謝し、協力しようという前向きな気持ちさえ引き出されていることがわかるのである。

 で、俺が思うに、この「ありえない現実で願望を満たす」という行為は、洗脳に近いと思うんである。音上一家は素晴らしいファンタジーで観客を魅了するという。ラッキーの現実と音上一家のファンタジーの違いは明確にされていないが、おそらく「現実は自身も入り込めること」であり、「ファンタジーは精巧な偽物を眺めること」なんではないか。言うなれば、前者はVRで、後者はARではないかと思うんである。

 ファンタジーというのはどれだけ緻密にできていたとしても、それが偽物であることがわかる。わかっていれば、それが自身には波及しないものであることもわかる。APEXでどれだけキルを取っても殺人にはならないし、ホラー映画を見て現実が侵食されることはない。もっと言えば、現実に置き換わらないものをファンタジーと呼ぶんである。

 ラッキーの「現実」はそうではない。明らかに観客を仮想の世界へいざない、音だけでなくコーヒーの臭いや味さえ再現している。それまでの落差があるから「偽物の現実」であることがわかるけれども、例えば、寝起きに違和感のない「現実」を見せられたら、それと気づくことは不可能なのではないか。

 自分自身の望む世界へ誘い、願望を満たし、仲間に引き込んでいく。これはジャンプの原則、というだけでなく、多くの物語が「悪」として描いてきたキャラクター造形である。例えば、『グレンラガン』では最終戦でアンチスパイラルが無限にあり得る「現実」にシモンたちを呼び寄せるが、魅力的な世界を振り切って、現実世界に帰還するというシーンがある。我々はいつでも夢にだけ引きこもることもできるが、それでは現実が何も変わらない。辛くとも今の現実を生きる、というのが日本の物語の不文律なんである。

 俺が『PPPPPP』を大好きなのは、この物語の不文律を日本のマンガ界のメインストリームであるジャンプが、堂々と踏み越えているからなんである。

 そのラッキーがとうとう自分自身のエゴを自覚し、「正しいこと」ではなく「自分自身のため」に能力を使うことを指向した。というのが前回のあらすじである。

 非常にすごいのが、ラッキー自身の作画はほとんど変わっていないにも関わらず、ラッキーが明らかに別人になっていることである。具体的には、ひとみである。「人間になった」ラッキーのひとみは左右に引くようになり、直前までのラッキーとは別人である。

 面白いことに、そのひとみの特徴だけでラッキーは追放された音上一家と同じ顔になる。ラッキーはやはり天才的な能力を持つ音上一家の一員であることがはっきりとわかり、逆説的に、音上一家はラッキーの得た悟りと同じことを自覚している。自分自身のために行動する、ごく幼い時からラッキーの言う「人間だった」ということもわかる。

 「人間」に目覚めたラッキーは兄弟たちに勝つために、「観客を使う」ことを選んでいる。語弊が生まれそうだが、戦いに勝つために観客を使う、というのは『ハンターハンター』でクロロがヒソカと戦った回と同じ発想である。周囲の観客を操り人形とし、襲わせることで優位に立つ。もちろん『PPPPPP』が残虐なバトルをするわけはないのだが、発想の方向性は悪なんである。

 前回の「覚醒」回は非常に面白かったのだが、今回描写が敵側に移ったことも大変面白い。「家族の再生を願うラッキーがどうやって勝つか」という話から一転して、「架空の現実を見せて侵食してくるラッキーとどうやって戦うか」という物語に見えてくるからである。

 俺は『PPPPPP』が大好きである。

ルリドラゴン

 面白い。とても良いマンガである。今回も「ちょっと苦手に思える人でも、つきあってみると仲良くできるかもよ」という提示をしており、それが全く説教臭くない。かわいい女の子が戸惑いながらも、おそるおそる誰かと近づく心の機微が素晴らしく丁寧に描かれている。

 こういう書き方が適切かどうかわからんけれども。俺にはこのマンガが「野菜を使ったお菓子」に思える。かわいい女の子が日常を生きる姿で抵抗感をなくし、真っ直ぐに言われると抵抗を覚えるような教訓めいたお話を、するっと飲み込ませる。

 なんとなれば、NHK教育でアニメ化もあり得るのではないかというくらい、うまい描写に感心する。これまでのジャンプは連続するバトルマンガの合間を「ラブコメ」か「ギャグ」を挟むことで緩和してきたんだと思うが、ここに「ホッとするコメディ」を置いてきた。

 俺は約30年ジャンプを読み続けてきたが、この類の日常ものを連載したのは初めてではないかと思う。過去に日常系が連載されてこなかったのは、おそらく小学生が面白がるにはパンチが弱いから、だと思うんである。ちょっとエッチなラブコメは小学生にもわかるし、体を張ったギャグもわかりやすい。それに比べると女子中学生のちょっとした悩みというのは小学生男子にはわかりづらい。というか、全然わからん。俺だって自分が小学生だった頃にはわからんかった。

 その「少年にはわからん」マンガが連載されているのは、少年ジャンプが明らかに少年以外に舵を取ってみたから、なんだと思う。ジャンプのメイン読者層は十代後半から三十代の男性だと言うが、雑誌としては小中学生を向いてきた。それがここに来て標準を変えたのは、ジャンププラスが想像以上に好調だから、なんだと思う。

 ジャンプは昔から「明らかに売れるのがわかっている」マンガでも、雑誌のカラーに合わない作品はボツにして、放出してきた。例えば、『進撃の巨人』は最初ジャンプに持ち込まれたと言うし、それをして編集部の見る目がなかったと言う向きもあるが。俺は違うと思う。『進撃の巨人』は高校生以上に向けた作品だから、どれだけ売れたとしてもジャンプマンガではないんである。

 このカラーに合わない作品はばっさり切る、極端な戦略が『チェーンソーマン』辺りから変わってきている。実績を出し、マンガとして面白ければ、カラーに合うか合わないかはさておいて、掲載してみるという方針に変わりつつある。

 それでも『チェーンソーマン』は比較的わかりやすい少年マンガ感を持っており、挑戦した面はレーティングに留まったというのが俺の印象なんであるが。『ルリドラゴン』は作品ジャンルにおいても、ちょっと挑戦してみた作品であると俺は思うんである。

 そういった雑誌の話は置いても。疲れたおじさんであるところの俺は、バトルマンガも大好きだが、同じくらい「何も起きない日常もの」も大好きである。ぜひとも長続きしていただきたい。

フツーに聞いてくれ

 面白いなと思うのが、これは恋愛マンガのようでありながら、創作をテーマにしたマンガだということである。表現することが生きることだ、という強い意思を感じるし、表現と人生が一緒であるならば創作と恋愛も同じなのだとは言える。

 通り一遍の波が過ぎ去った後に、伝えたい相手が伝えたかったことが伝わっていることを伝えに来てくれた。自分の投げた表現が理解された、ということが大きな喜びとして表現されており、それが物語の終わりになっているんである。そこにおいては告白が成功するだとか、キスをするだとか、その先のことだとかは一切出て来ない。「伝わった」ということが全てであり、何にも代えがたいことなんである。

 『フツーに聞いてくれ』というタイトルを鑑みるに、「俺の言っていることはわかるか?」「普通に読んでくれればわかるはずなんだ」という意思があるんであろう。

 ところが、どうしてか、俺は藤本タツキのマンガをいつまでも理解できずにいる。「言いたいことがあるんだ!」という大きな声は届くのに、何を言いたいのか、いつも全くわからない。表現したいという意思がものすごく強く伝わってくるのに、その中身がわからない。ものすごくでかいプレゼントボックスをもらうのに、その中身を開けられずにいるんである。

 だからか、特別に好きというわけではないのにも関わらず、何故か藤本タツキの単行本を買ってしまう。今度の作品こそわかるんじゃないか、と思うんである。

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