鈴木敏夫とジブリ展

 鈴木敏夫とジブリ展に行ってきたんである。面白かった。大変面白かった。

要領の良い天才としての第1部

 構成として3部になっており、最初はジブリ以前。鈴木敏夫氏の幼少期とアニメージュ編集長時代のストーリーである。これはまさにストーリーと言うのが適切な内容で、幼少期からマンガに耽溺し、長じては映画や音楽にハマった鈴木青年は学生運動に幻滅し、アニメージュという最新のメディアを紹介する時代の寵児になった、というような内容が大量の書籍や映画パンフレットと共に語られていく。

 ここはいわば前ふり、鈴木敏夫氏が元来頭が良く、要領よく仕事をこなせるし、口を回して部下も上司も使いこなせてしまう、わかりやすいエリートであるという伏線の場所である。すんなり慶応に入れてしまうし、後に没落する学生運動ににはさっさと見切りをつけて、次の時代を移すアニメージュというメディアを創刊から切り盛りする寵児だった、という導入部分である。

二人の天才に魅入られ、船を漕ぎ出す第2部

 第二部は宮崎駿氏と高畑勲氏との三角関係とでも言うべき内容で、主としてトトロと火垂るの墓について語られている。鈴木敏夫氏の著作も2つほど読んだが、そこでも確かに繰り返し語られていた内容ではある。内容は大きく変わらないが、今回は鈴木敏夫氏の直筆のメッセージとイラストが6枚ばかり掲載されており、どれだけの想い、紆余曲折がそこにあったのかが無言のうちに込められているように感じられた。

 第1部でエリート街道を突っ走ってきた男、鈴木敏夫氏はアニメージュの仕事で宮崎駿と高畑勲という才能に出会う。彼らのアニメを見てみたいと思い、ついには安定した職を捨てて二人と同じ船に乗ることとなる。プロデューサーとしては完璧な才能を発揮し、出資会社から金を引っ張ってくる手際も完璧なら、制作進行も微に入り細を穿つほどである。コンテから原画を起こす際にリテイクで何枚増えるかという係数まで算出して、「どうせ、ここまで増えるんだろ」という先回りまでしているののには驚いた。要するに、作るものが売れると確信はしているが、信用は全くしていないのである。

 鈴木敏夫氏は当初、宮崎駿氏と高畑勲氏のタッグを組んだアニメがもう一度見たい、トトロの企画を練り上げたのだという。しかして、脚本も原画も宮崎駿氏が作るのに、演出だけできるわけがない、と高畑勲氏はつっぱねたのだという。それはそうだ、と俺も思う。高畑勲氏がコンテを作ったり、リテイクを出したとて、素直に宮崎駿氏が聞き入れるわけがない。船頭を多くして船山を登る、というのは目に見える未来だ。宮崎駿氏がこれを期待するのはわからんでもないが、これを通ると思った鈴木敏夫氏はどう考えても頭のネジが一本抜けている。

 企画が頓挫したことで、仕方なく、鈴木敏夫氏はトトロと火垂るの墓の二本立てを思いつく。トトロだけでは牧歌的にすぎるため、いかにも教育的な企画を抱き合わせることで出資者を募る。同時に、一本を宮崎駿氏に作らせて、もう一本を高畑勲氏に作らせれば、実質的には共作である。と同時に、合作企画を蹴った高畑勲氏への意趣返しでもある、というのだから、見事な手腕ではある。

 ここまではプロデューサーとして公私混同を果たしながら仕事も予算も成り立たせるという神業のようなやり口であり、第1部の天才性が伏線として生かされている。ところが、宮崎駿氏も高畑勲氏も一筋縄でいくような人間でない。宮崎駿氏は「俺よりパクさんを取るのか」と発狂してトトロを投げ捨てようとしたり、先んじてスタッフを全部抑えて火垂るの墓が作れないように仕向けたりする。一方で、高畑勲氏も完璧な作品に仕上がるまで無限にリテイクを繰り返し、制作は一向に進まない。確かに、火垂るの墓は今に至るまで類を見ない作品であり、内容の儚さと映像の恐ろしいほどの美しさは替わるものがない。

 鈴木敏夫氏はアニメージュの編集長でありながら、全く仕事をすることもできなくなり、両監督が引き起こす種々雑多なトラブルに巻き込まれ、精神的にも体力的にも限界に追い込まれる。ついには職を辞し、ジブリへ入ることとなるのである。まあ、そもそもアニメージュで編集長をしながら、無関係の会社のプロデューサー業を勝手にやっている状態が異常ではあるのだが。

 つまり、第2部はなんでも要領よくこなせた男が、それ以上に破天荒な男たちに魅入られ、荒波に漕ぎ出していくことになるというストーリーなのである。

ジブリが終わった後の第3部

 第3部はいわば余生であり、究極のトラブルメーカーであり、天性の才能を持った男、高畑勲氏がいなくなった後の話である。時間軸で言えば、まだかぐや姫を作っていた頃も入っているのだが、そこでのトラブルは触れられていなかった。高畑勲氏は何度も同じように時間と金をかけすぎてジブリを傾かせているし、かぐや姫は最後にして最大だったようにも思えるが、全くない。かぐや姫のプロデューサーは鈴木敏夫氏ではなく、後任の西村義明氏だからだ、と言うことも可能ではあると思うが。

 俺が思うに、この3人の関係を最も象徴し、印象深かったのはトトロ、火垂るの墓の騒動であり、同じことを2度も描くとストーリーが中だるみする。構成としては第3部はジブリが大成功した後の話、周囲をバックアップしたり、自身の書画を書いたり、一番熱い時期を過ぎ去った、悠々自適の今というストーリーにしたかったんではなかろうか。紅の豚で言う、あの暑い夏を懐かしく振り返っている、最後の回想シーンのような内容である。

自伝的映画としての企画展

 大変面白かった。何が面白いと言って、企画展が明確に物語になっていたところである。ごく普通に資料を積み上げているだけなら、こんな内容には絶対にならないだろう。それは良いとか悪いとかいう意味ではなく、例えば、歴史資料博物館に行って刀や巻物を眺めたところで、そこからストーリーなどくみ出せないのと同じである。目の前にある事実は事実である以上のものではなく、ニンジンをかじってニンジンの味を確かめる程度の話にしかならない。

 この企画展は鈴木敏夫氏が語りたいストーリーが明確にあって、そのコンテンツに必要な要素だけが順番に積み上げられている。いわば、これが鈴木敏夫氏の映画なのである。幼少期に描いた少年マンガがあり、映画が大好きで、もののけ姫のコンテから自分なりのサブコンテを作っている資料もある。自分で何かを作りたい、というのが鈴木敏夫氏の願望なのであり、この企画展は鈴木敏夫氏の作った自伝映画みたいなものなんである。

 今回の企画展から鈴木敏夫氏を多面的に見ることは難しい。ニンジンを素のままかじって味を確かめるような構成にはなっていないからだ。完璧に味付けされて、調理された結果が提示されている。俺はそれでいいと思う。何故なら、素のままを提示する企画展ならおそらく後からいくらでも作れるからである。しかし、本人が自分の思うように作る企画展は存命である今しか作れない。

 プロデューサーといえど演出や脚本にも大きく関わってきただろうが、やはり映画においては両監督の影響力の方が圧倒的に大きい。その中から鈴木敏夫氏の要素を見出すのはなかなかに難しい。今回の企画展は当人の意図が監督を通さずに、はっきりと現れているところが大いに魅力的である。著作だけではわからなかった性向が見せてよいと並べられた手書きのメモから感じられるようで、大変楽しかった。

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