嫌いな算数を好きにさせるより、嫌いなまま短時間で済む方がハッピー

子どもたちを「数学ぎらい」にしてしまった学校での教え方は、日本の教育を象徴している

 俺が思うに、数学なんて別段好きにならんでいいのである。好きにならんでもいいが、できなければ困る場面がある。中学くらいまでの算数をこなせると、スーパーで大根を買ったり、友達と飯を食いに行って割り勘したり、税金の支払いが必要になって払ったりすることができるようになる。

 逆に言うと、算数ができないと上のことができんのである。できんということはどういうことかというと、誰かに割り勘だと言って多めに請求されても突っ込めないし、小さくて高い大根と大きくて安い大根があった時に高い方を買っちゃったり、税金を多めに払わなきゃいけなかったりするんである。

 だから、数学ではない、算数までの算数は暗記でもテクニックでもなんでもよろしい。好きでも嫌いでもいいから、とにかくできるようになることが重要なんである。できてさえいれば、なんでもいい。

 理想は「算数を好きになる人が多く」「算数をできる人が多く」なることである。しかし、そんなことは難しいわけだから、「算数を嫌いになる人が多い」代わりに、「算数をできる人が多く」なるようにしたのが、これまでの算数教育だったと俺は思う。

 これが仮に逆転して「算数を好きになる人が多く」なる代わりに、「算数をできる人が減る」ということになったら、大問題である。算数のできる人間ができない人を数字の上で操ることができてしまうので、例えば、簡単に「割り勘で端数抜いて5000円な」と親切なふりをして、しょっちゅう金をせびられる人間ができてしまったりする。

 俺は要領がいいせいか、勉強も授業も嫌々やった記憶はないが。そういう人間が少数派であることも知っている。逆に言うと、俺は大半の人が喜んでやっていた体育の授業を「汗をかくから」という理由で、嫌々やっていた。

 例えば、薬だって喜んで飲むやつはいないが、どれだけまずくても飲むのと同じで、必要であれば、それをするしかない。気持ちと必要は全然別の話だからである。俺は必要だから嫌々体育をしていたし、大半の人間は必要だから嫌々勉強をしていた。

 別段それを無理して「楽しく」とか「好きになる」要素を入れんでもいいんである。考えるべきは「もっと短い時間でできるように」とか「より効率よく家に帰れるように」といった話で、それができると苦痛の時間が短くなる。嫌いなものを好きになる努力をさせるより、1時間の苦痛が30分になる方が全員がハッピーだろう。

 俺はそれを進歩だと思う。

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