ガンダムでバズったのであり、twitter140文字ではいまひとつ伝わっていない感がある。伝わったら誤解が解けるのか、伝わったら批判されないか、と言えば、全くそんなことはないと思うんであるが。「2*2=10」だと思っている人、だと言われたくはない、というような心理である。
俺のガンダム遍歴
俺が初めてガンダムを見たのは、中学生の頃だった。ガンダムにドはまりしている友人がいて、「なんとしても逆シャアを見せたい」と言って、俺にガンダムを見せた。具体的には、彼はまずファースト劇場版3部作を見せて、続けて逆シャアのDVDを再生した。
はっきり言って、俺にはガンダムが理解できなかった。理解できないという意味では、今もってガンダムを理解できていない。できていないが、今にしても思うと、ファーストよりもZを見ないと逆シャアは理解しようがないとも思う。
当時は「ファーストでジオンに対する復讐を果たしたシャアが、逆シャアで同じことをしようとしている」という印象で、中学生の理解力ということを差し引いても、ファーストと逆シャアだけでは、これが限界だろう。
俺のガンダムは長らくここで止まっていたのだが。現職について、先輩から「ガンダムはいいぞ」と勧められた。NetFlixを見たら、Zがあった。あるなら見るか、と何の気なしに思ったのだが、全50話。長かった。非常に長かった。
やっと見終わった時、俺は解放感でいっぱいだった。やっとガンダムから解放されたんだ。週に4話ずつだから、4ヵ月近く、俺はガンダムを見ていた。もうガンダムを見ない日々がやってくるんだ。
NetFlixにZZはなかった。「なかったので、見られません」。俺は先輩に打ち明けた。仕方がない、ここで終わりということになるだろうと思った。翌日、俺の席にはDVDが置かれてあった。ZZ全巻セットである。先輩は本気だった。
47話である。長い。Zよりは短い。たった3話短い。それを頼みに、俺はZZを見始めた。正直なところ、ZZは面白かった。少なくとも、ZよりはZZの方が好みに合った。俺はたぶん当時の全国の子供たちと同じ気持ちを抱いていたと思う。
ジュドーはカミーユよりも明るい。ずっと戦争は続いているが、今度は同年代の仲間たちもいっぱいいる。みんなのリーダー、ジュドーはやんちゃなところも、向こう見ずなところもあるけれど、共感できる「いいやつ」だ。
その想いも後半につれ裏切られていくのだが。ともかく、俺はZZも完遂した。これで俺はファースト、Z、ZZ、逆シャアを見た男になったわけである。完璧とは言えない。ガンダムファンからしたら、鼻で笑われるようなガンダム遍歴だが、ともかくも、俺はガンダムを見た。
そこでDVDを返した先輩に言われたのが、「次はユニコーン、そしてハサウェイだ」ということなんである。
俺にとってのガンダムは「よくわからない」
はっきり言って、俺はガンダムが好きではない。嫌いとまでは言わないが、未だによくわからないんである。よくわからなさの一番大きな部分は「作中で設定が全然説明されない」ということであり、今どこで誰が何をやっているのか、全然わからなかった。
例えば、Zではティターンズとネオジオン、そして我らがアーガマが戦うわけであるけれども。俺からすると「必死でティターンズと戦っている最中、突如第三勢力が現れて、Zはちゃんと完結するのだろうか?」と疑問でいっぱいだった。
知っての通り、Zの物語はZでは完結しない。終盤で唐突に思想闘争じみた会話が繰り広げられ、何故かカミーユとシロッコが切り結ぶことになり、体から出る不思議なパワーによってビームその他が一切弾き飛ばされ、ものすごい縦長の形相でシロッコが死ぬ。
説明がない。なんでそんなことになるのか、全くもって説明がないんである。「これ、なんですのん?」と俺が聞いたら、先輩は「Zガンダムには開発中のサイコフレームが」と教えてくれたが。作中に説明がなかったら、それは後付け設定と何が違うのか。
ZZでも終盤に何故か突然グレミー・トトが裏切り、ほぼほぼ勝ちを収めていたネオジオンがしょうもない内ゲバで崩壊する。「なんでやねん」と俺は思った。あのふわっとした金髪ボーイがなんでクーデターなんか起こせるのか。
全話見終わった後に、wikiを調べたら、グレミーはデギンの隠し子だと書いてある。知らんがな、という話である。そんな設定も作中で語られなければ、視聴者としては知りようがない。これで納得しろという方が無理がある。
俺がガンダムを見てきて、これだけは間違いないと確信を持てることがあって。それは「ガンダムで最も情報量が多いのは冒頭のあらすじと次回予告だ」ということである。なんならあらすじと次回予告にしか出てこない情報がある。
本編より予告の方が多いアニメに対して、最後まで「よくわからない」という感想になるのは、致し方ないと思うんである。これに対して、先輩もネットの諸氏も何故か「外伝の〇〇というマンガを読め」とか「小説版も読まずに文句を言うな」と言うのだが、単品で完結していない作品は商品として成り立っていないと俺は思うんである。
あらゆるものを本編で説明する必要はない。しかし、最低限必要な情報は本編で回収して欲しい。「最近は謎を楽しめない視聴者が増えてきた」と庵野さんは言っていたが、「商品として作品を売るなら、謎のままにしていいのは納得できる範囲にしてくれ」と俺は言いたい。
俺が思う宇宙世紀のガンダム
俺個人のガンダムに対する感想は「よくわからん」というところである。妙に富野信者であると思われている節があるが、どっちかと言えば、俺にとっての富野さんは「スポンサーの要求に応えながら、やりたいことはやる」という評価で、「面白い作品を作るアニメ監督」という認識ではない。
ただ、俺もオタクとして足掛け20年近くガンダムと触れ合ってきた。俺の書き方も悪かったが、俺は1連のツイートで宇宙世紀以外のガンダムについて含めていない認識である。つまり、Gガンダムや∀ガンダム、ガンダムXなどは見ているんである。それらに対して、生きているだのいないだのとは書いていない。
そして、半年以上もZやZZを見てきたものとして、富野さんの作るアニメの肌感くらいはわかっているつもりなんである。少なくとも、宇宙世紀のガンダム世界では「人間と人間は理解し合わない」し、「人間は思想よりも合理性で動く」生き物だと思うんである。
人間と人間は理解し合わない
ファーストにはニュータイプがほとんど出てこない。ニュータイプという言葉自体あやふやで、何を指しているのかもわかりづらい。アムロとシャア、ララァの関係性や、作中の説明から宇宙空間に適応した人類は認知能力を拡大させるのだろう、というニュアンスはくみ取れるが。それはつまりなんやねん、という話は出てこない。
Zの演説を見ていると、シャアにとってのニュータイプは共感能力の極地であり、人類全てがニュータイプに目覚めれば他人の嫌がることなどを進んでしなくなる。地球連邦の権力者が宇宙に住むコロニー住人や金のない地球人を虐げるようなこともなくなるはずだ、と信じている節がある。
この思想は他者にコマ以上の価値を見出せなかっただろうシャアが、ララァと心から結ばれたと感じたし。そのララァが同じニュータイプであるというだけで敵のアムロとさえ通じ合ってしまった事実から、共感能力が争いやいさかいをなくすものだと信じたかったせいではないか。
実際問題、カミーユは遠い戦場の赤の他人の兵士の断末魔を聞き取って、メンタルをどんどん崩壊させていった。認知能力が異常に高いと他者の苦痛を我がことのように感じるから、虐げることは物理的にできなくなる、というのも一理あるとは思う。
ところが、Zを見ていると、ニュータイプの素養を持つレコアやシャアはお互いの気持ちを分かり合うことができるはずなのに、割としょうもない痴情のもつれで仲違いし、シロッコに主旨替えする。
ZZでもハマーンは「同じほどの共感能力を持つジュドーならわかってくれるはずだ」という期待感を持っていたように見えるが、ジュドーは「気持ちが伝わってくる」という旨のことをしばしばつぶやきながらも、最終的にハマーンを否定する。
この一連の描写を見ていると、宇宙世紀のガンダムにおいて、人間と人間は理解し合えない生き物として描かれていると俺は思うんである。ニュータイプはよく見える目と感じる耳を持っている。非科学的なほど他者を感じ取れる。それによって争いを収められる、という描写に一定の可能性を見せているが。
そのストーリーによって人間はどれだけ鋭く他者を知ることができたとしても、見ようとしなければ見ないし、認知能力がどれだけ上がっても、共感能力が上がるわけではない。わかりやすく言えば、メガネをかけても他人の気持ちはわからない、ということをニュータイプというものを使って説明しているように思うんである。
人間は思想よりも合理性で動く
ファーストはともかく、ZやZZを見ていてことさらに思ったのが、「思想が役に立っていない」ということである。Zは終盤でシャア、ハマーン、シロッコの三者の思想がぶつかり合う展開になった。
面白いことに、三者三様のことを言っているようで、3人が言っていることはおおむね同じなんである。ようするに、地球人類は考えが古臭いから、ニュータイプが人類を支配するしかない。3人がもめているのはどうやってニュータイプをトップに立たせるかであり、それは誰がトップに立つか、という話なんである。
ZZでもハマーンはたびたびジュドーに秋波を送っている。何故カミーユではなくジュドーだったのか、わからないが。作中の描写を見るに、ハマーンとジュドーはニュータイプ特有の感覚によって「互いにわかりあった」感触を得てしまい、「わかるからには賛同してくれるはずだ」という想いを強くしたからではないか、と思える。
逆シャアでもシャアとアムロが思想をぶつけ合っているが、実のところ、この2人の議論も内容はそこまで大きく違っていないと俺は思う。2人とも地球連邦が腐りきっていることを前提に会話しており、地球から人類を引き離した方がいいという点でも一致しているように見える。ただ、シャアはアクシズによって強引に住む場所をなくそうとし、アムロは犠牲にするものの多さ故に抵抗している。そういう話だろう。
で、これらの思想が一体どうなったか。シャア、ハマーン、シロッコ、アムロ。いずれの人も後の世に姿がない。ようするに、思想は力を発揮しなかったし、なんの価値も残していない。意味がないんである。
例えば、ファーストでジオンと地球連邦が戦争をしていた際も、中立のコロニーはたくさんいた。何故中立がいたのかと考えると、地球連邦に支配されていることに抵抗を覚えてはいるものの、ジオンが信頼できるかといえばわからない。両方にいい顔をして、戦後に良いポジションを取った方が有利、だからだろう。
これは当たり前の話だと思うし、実際にガンダムを見ていると思想より合理性で行動していた組織ほど生き残っている。戦後を生き延びたコロニーもそうだし、腐敗していると言われる地球連邦もそうだ。
人間
宇宙世紀のガンダムにおいて「人間と人間は理解し合わない」し、「人間は思想よりも合理性で動く」。これは何かというと、ごく普通の人間の話だということである。人間は誰しも真に他人を理解することはできないし、合理性より思想を取ることもできない。ごく普通の人間観というものがガンダムのベースにはある。
面白いことに、その象徴としてニュータイプがある。ニュータイプは一見して「何でも理解できる」ように見えるし、「優れた思想を持っている」ようにも見える。しかし、作中の代表的なニュータイプは上述したように「理解し合えていない」し「自分がトップに立ちたいという合理性」で物事を判断してしまう。合理性というより感情か。
富野さんの作風がこの「人間を描くこと」にあり、それによってガンダム世界はものすごく人間臭いアニメになっている。「生きている人物として描写を入れる」というよりも、「実際に生活してもらって、絵になる部分をカットしてきた」という世界観なんである。
説明の仕方が難しいけれど。例えば、お芝居の1シーンをシナリオにして、その部分だけを演じてもらうのが普通のアニメだ。映像として映える物語、画角を決めて、絵を動かす。富野さんのアニメの場合、部分を区切っていない。ある街のある一週間を区切って、そこら中にカメラをつけておく。そこにイベントを発生させて、洗濯風景とか飯作ってるところ、あたふたしてる場面とかを切り取ってきて、作品とする。
話は逸れるが、シン・エヴァンゲリオンで庵野さんの手法は、これを実際にやろうとしたものなんだと思うんである。シン・エヴァンゲリオンでアヤナミは言葉を教えてもらったり、農作業をしたり、赤ちゃんの寝かしつけをしたりする。
エヴァは最初から「人類補完計画で全ての人類を分かり合えるものにする」という計画に対して、「人間と人間は理解し合わない」と拒否するという話だ。その描写を説明する上で選んだのが「普通の人がするコミュニケーション」であり、それが農作業とか洗濯の日常生活である。たぶん「全てを理解し合える人類」は一人で全てをこなすから、共同作業もしないし、コミュニケーションも取らないからだろう。
もっと言えば、「あらゆる人間を統合する」という思想を拒絶し、「みんながバラバラでいる方がいい」という合理性を取ったのがエヴァだとも言える。察するに、感情を交換すること、コミュニケーションを取ること自体が人類の営みであり、メリットであると言える。「思想の統合」はそのメリットを丸々捨てることであり、その生活は栄養は足りるからカロリーパックだけ食っているのと同じなわけである。
ガンダムとエヴァは同じだと言いたいわけではなく、根底で人間を描こうとしたら同じ結論に行きついたということなんだろうし。キャラクターとしての人間ではなく、本当に生きている人物を描こうとしたら、そうならざるを得なかったということなんではないか。
じゃあ、人間はいかに生きていくべきなのか。富野さんは何を提示したかったのか。逆シャアまでの結論として俺が理解したのは、「人間は理解し合わなくていい」し、「思想で生きなくていい」。しかし、「本当に必要になった時は、それぞれの事情で協力し合え」ということである。
アクシズが落ちる瞬間、何故か敵も味方もアクシズに飛びついて、地球を救ってしまう。あのシーンを理解しようとしたら、そういう結論にならざるを得ない。
ユニコーンへの違和感
俺はそもそもことさらにユニコーンを批判したかったわけではない。これは誤解を招いてしまったところだが、全く無関係の作品としてユニコーンがあるなら面白い作品だとは思う。WやXなどの作品のように、別世界なら楽しい。
正直、序盤からもうちょっと主人公の活躍が見たかったという気持ちもあるが。バナージもミネバも素直で、いっぱいいっぱいで、応援したくなる。戦闘シーンもかっこいい。くるくる回る特徴的な動きは、これまでにないモビルスーツ戦という感じがしていい。
そもそも、俺はなろう小説もライトノベルも好きだし、シビアな世界観がことさらに好きというわけではない。あらゆるガンダム作品を富野基準で作って欲しい、と言っているわけではない。いくら俺でもGガンダムを見て、「宇宙にリングがあるわけないだろ」なんて言うわけがない。
俺がユニコーンを受け付けなかったのは「半年以上も異常なほど世界と人間を克明に描くアニメを見てきた」直後に、「同じ世界観だから見なよ」と言われて見てみたら、「人にも地球にも優しいロボットアニメ」だったからであり、中華に行ったらピザが出てきたような衝撃を覚えたからである。
もうちょっと言えば「中華屋だと思ってたけど、ピザも出るのか」と思ってしまうと、同じ店に行くのがためらわれるという気持ちもある。ピザが嫌いなわけじゃないが、どっちが出てくるのか頼むまでわからなかったら、もう行かなくてもいいかな、と思うのは道理じゃないだろうか。
人間が人間を理解してくれる
ここまで読んだ人ならわかってくれると思うが、ユニコーンの人物がみなすごく物分かりがよい。
ファーストから逆シャアに至るまで、物分かりがいい人間というのを俺は見たことがない。みんなどこかしら誰かしらコミュニケーションに齟齬があって、内心では全然別のことを考えていたりする。徴兵した学生には知識がなくて当たり前なのに、誰にも説明されないから、「わかりません」と言ったら殴られたりする。
ものすごく理不尽な展開だが、ガンダムではしょっちゅうある。これはたぶん「脚本のテンポをよくする」ためとかではなく、「戦時下の軍人がいちいち部下に斟酌するわけがない」というリアリティだし。人間と人間は理解し合えるわけがないからだろう。
ところが、ユニコーンではキャラクターがちゃんとした会話をしている。お互いに思惑はあるものの、適切な意見を述べて、利害関係の元で対立したりはするものの、言っていることをちゃんと理解しているのである。例えば、バナージが父親の死に目に立ち会う時も、ちゃんと会話をして、ちゃんと相手の意思をわかりあっている。バナージが地球連邦の軍人に歯向かう際もぶん殴られたりせず、きちんと説明した上で、黙らせたりしている。
これはおそらくユニコーンの作者にとって人間と人間が話し合って、理解し合えるのは当たり前の事実だからだろう。これは創作論あるあるといってもいいと思うが、作家性の一つとして「分かり合える」作家か、「分かり合えない」作家か、という分け方があって。ユニコーンのシナリオを作った人は典型的な「分かり合える」思想の作家だと思うんである。
個人的に、この齟齬が非常に重要だった。だって、ガンダムにおいて「人類は分かり合えない」が大きなテーマの一つである。分かり合えないからこそ、一見分かり合えそうに見えてしまうニュータイプというものを作って、「こんだけすごい設定盛ってみても、人間が理解し合えるなんて無理なんだよ?」と嫌味なくらい説明してくるのがガンダムである。ごく普通に会話できてしまう世界では根幹が崩れるわけである。
やる前から終わっている「秘密」
ユニコーンでは地球連邦を揺るがる箱と鍵が登場する。その秘密で地球に隠然とした権力を誇る財団ができたし、今それを巡って地球連邦とネオジオンの残党が対立しているという設定である。
「ただのマクガフィンにケチをつけるな」という旨のリプライをやたらもらったが、俺が言いたいのは作中で機能しない設定をマクガフィンとして提示されても全然納得できないという話なんである。
「地球連邦の根幹を揺るがす秘密」なんて繊細なものは、どう考えても宇宙世紀の世界観では成立しない。地球政府の腐敗についてはZやZZでも散々出てきたが、ようするに、特権階級が金と権力で地球資源を牛耳っている構図である。
作中の描写を見るに、彼らは「偉いから金と権力を手に入れた」わけではない。「昔から金と権力があったから、地球連邦政府に食い込んでいる」んである。連邦政府は金持ちの使っている道具に過ぎない。彼らの権力基盤が連邦政府にない以上、連邦政府自体に正統性があろうとなかろうと、なんら意味がないんである。
もし正統性なんてもので地球連邦のゲームをひっくり返せるのであれば、おそらくZでシャアが演説をした際に世界は変わっていた。シャアはジオン・ダイクンの遺児として名乗りを上げたし、大義名分によって地球連邦軍とそれ以外にわかれて、もう一度大々的に戦争することもできただろう。
だが、そんなことにはならなかった。ガンダム世界では思想よりも合理性が取られる現実的な世界であり、シャアにどれだけ正統性があってもメリットがない話に協力する人間などいなかったからである。
「正統性だの思想だの、正攻法で地球連邦を破壊するのは無理なんだ」と悟ったからこそ、逆シャアのアクシズ落としが出てくる。ユニコーンのマクガフィンは「その話はもう無理だった」とわかりきっているものを、終わった後に蒸し返している感があって、三歩前の議論という感じがしてしまうんである。
〆
「not for me」の主語がデカかったせいで無駄に煽っているように見えたんだと思うが。まとめると、俺はガンダムファンでも富野ファンでもないし、ユニコーンがつまらない作品だと言いたいわけでもない。
ただ、富野ガンダムとユニコーンでは基本となるリアリティが違いすぎるし、逆シャアの数年後にユニコーンが起きると言われても違和感は拭えない。特にZZのミネバ様を知っていると、ユニコーンのミネバ様は別人に思える。ZZのミネバ様は感受性が鋭く、初対面のジュドーの心底を悟って、懐くそぶりもある。世間知らずに見えて、周りからどういう風に思われ、利用されているのか、じょじょに理解していた風でもあった。
あの延長線上にユニコーンのミネバ様が接続されるというのは、俺にはいまいちピンとこない。「年頃の女の子が成長したら別人になって当たり前だ」と言われそうだが、元のキャラを崩していいと思うのだったら、オリジナルキャラクターを配置すればいいと思うんである。
そういう意味では、ユニコーンが全く同じ設定でも、フル・フロンタルもシャアのニセモノだったのだから、ミネバ様も実はニセモノだったという設定の方が受け入れられた。秘密の中身が茶番に終わり、関わった人物たちも実は全部ニセモノだったのだ、という方が物語としての着地点として面白いと思うんである。
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