『すずめの戸締まり』は男女逆転ものである

 昨日見てきた『すずめの戸締まり』について3周くらい考えていたんだが。ふと思いついたのが、「これはオーソドックスなヒーロー映画を男女逆転させたものではないか」ということである。軽はずみに封印を解いた結果、世界に危機を招き、恋人が椅子に変えられてしまった。恋人を元に戻すため、家出をして日本全国を飛び回り、世界を救う。このあらすじだけ読むと、おそらく大半の人はやんちゃ坊主が傷つき、成長して大人になる、ヒーロー映画を思い浮かべるだろう。このわかりやすいストーリーライン男女逆転させたのが今作『すずめの戸締まり』なんではないか。

 ただ、今作の主人公すずめは全然成長しない。まずもって、すずめは冒頭でごくごく普通の女子高生をやっており、友達とも仲良し、親とも仲良し、進路に困っているわけでもない。ごく普通で、かつ、幸せな女子高生である。

 「悩みがない人間なんかいない」という人はいるかもしれないが。それはここでは問題ではない。映画で描写されていないからである。描写されていないものは製作者がそれと意識して書いていないということであり、「見せたいものではない」からである。

 成長要素というのは見繕えば、いくらでも出てくる。例えば、終盤では叔母の環と口論をするシーンがある。勝手に家出をした姪を心配で追いかけてきた環に対して、憎まれ口を叩いて、反撃をくらうというシーンである。この描写が予定されているのであれば、冒頭にすずめと環にやんわりとした確執か遠慮のようなものを描いておくことで、そこに和解や成長といった様子を加えられる。

 すずめは母親の職業だった看護師を目指している描写もある。最後の最後に示唆されるのだが。これを入れるのであれば、すずめが進路に悩んでいる描写をもっと入れておくことで、旅をして色々な大人に会ううちに成長し、進路を思い定めるというエピソードも挟めただろう。

 できるのにやらない、というのはメッセージである。この映画を成長ものにはしないぞ、という意思表示だと思うんである。

 じゃあ、代わりにすずめは何をしているのかというと、精一杯、好きな男性と恋愛をしている、ように俺には見える。話の発端からして、一度会っただけの男性を追いかけて廃墟に行くという展開なんである。大きく感情が揺れるシーンは「草太と扉を閉めて、ほめてもらった」とか「草太をぶっさす」とか「草太が教員試験を捨てて助けに来ていたと知った」とかで。終始一貫して、すずめは草太のことだけを考えている。見事に恋愛映画をしている。

 つまり、『すずめの戸締まり』はオーソドックスなヒーロー映画を男女逆転した上で、そこで描かれる主軸は恋愛だけという稀有な映画だと思うんである。

 俺はこれを画期的だと思う。男が主人公だとどうしても動機に制欲を疑われてしまい、純粋な恋心をきれいに描くことは難しい。パズーとシータの年齢くらいが限界で、それ以上になると「下心があるからがんばれるんだな」と思われてしまう。それを回避するのに成長要素とかライバルとの戦いとか物語上の段取りが必要になる。

 これが男女逆転させるだけで、そういった演出なり欠損なり成長なりを用意しなくてよくなるんである。これはもう男の子を好きになって、その純粋な気持ちからがんばっているんです、と言うことができるし。成立している。実際、『すずめの戸締まり』はすずめが要石を外したことで危機が訪れ、それを封じたことで救われる。いわば、マッチポンプであり、作中のほぼ全員が迷惑しかこうむっていない。芹澤なんか車をオシャカにされており、本当に全く損しかしていない。その中で得るものがあったのは「かっこいい彼氏を手に入れた」「楽しい旅の思い出を作った」すずめだけなのだが。それでも映画を観ると納得感があるし、面白いのである。この方法論は自分でもぜひ使っていきたい。素晴らしいアイディアである。

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