『翔んで埼玉』を見たんである。面白かった。ギャグ映画として完璧に仕上がった作品であった。
俺は千葉県民である。だから、この映画も半分は他人事ではない。『翔んで埼玉』という映画は元々マンガである。東京から迫害を受ける埼玉及び千葉県が反目し合い、憎しみ合いながらも、権利を勝ち取るという作品だからである。
しかし、俺は千葉県民だが、不思議なくらい東京にも埼玉にも思うところがない。電車数分で東京という地理的な問題もあるのだと思うが、おそらく千葉県民は東京にも埼玉にも思うところがない。まるでない。
そもそもが、自分が千葉県民という意識もない。愛郷精神というものが薄いんだと思うんである。別段、千葉にしかない食べ物、名産というものもないし、千葉のここが大好きだという部分もない。代わりに、全く不自由も感じていないから、移住するという選択もあまり浮かばない。それが千葉であり、千葉県民である。
埼玉人はおそらく違うんであろう。この映画が作られ、笑えるということは、埼玉県民は多少なりと埼玉に誇りと蔑みの両方を持っていて、それについて東京に反発したり、千葉に克己心を抱いたりしているんであろう。それが、千葉県民として、なんとも不思議で、面白い。
映画単独の話になると、この誇張した馬鹿々々しい世界観を盛り上げる衣装やセットが素晴らしい。非日常感を強調すれば強調するほどストーリーの異常さが際だち、「ああ、これ、笑っていいんだ」という気持ちをかき立てる。これがないと「埼玉を馬鹿にして笑っている自分は失礼なのではないか」という気分になるから、大げさに誇張してくれることは非常にありがたい。
物語のテンポも素晴らしく良い。最初に学園の下りがあると「こういう話が展開するのかな」とイメージが膨らむけれど、それをさらにすっ飛ばして次へ次へと進んでいく。最初に想像したポイントに驚くべき早さで到達した上、そこからさらに先へと進んでいく。物語の疾走感がある。
普通はここまで駆け抜けていくとムリヤリ感、こじつけ感が出てしまうものだが、こと『翔んで埼玉』ではそれが問題にならない。元から話が日常を超越しているから、「これはこじつけでは」などというのが馬鹿らしく、むしろ「ツッコム方が無粋だ」という感覚になる。いわば合法的に物語的な跳躍が進んでいく。
ラジオのストーリーと現実を交互にすりあわせた末、あからさまな非日常的世界を現実に着地させたのは、時間をとばしたことと、異常は異常なものとして隔離した上で、しれっとそれを現実に糊付けするようなテクニックなのだと思うが。個人的には、ここは少しやりすぎのようにも思えた。
夢だと思ったら、実は現実だったんだよ、という演出の亜種なのだろうけど。それによって「都庁の騒動を誰も知らないのか?」とか「手形が実在したなら都市伝説ではないのでは?」といった物語上の不自然さが際立ってしまったように思う。
ただ、物語の最終地点が「世界埼玉化計画」に至ったのは素晴らしいと思うんである。何故かと言うと、物語の終盤まで埼玉と千葉は被害者であり、東京や世間の圧制や偏見に立ち向かう正義の立場であった。そこにおいて秘密結社というのは必要に応じて生まれたものであって、手形がなくなったことで役割を終えている。
しかし、現実に戻ってきた際に埼玉の秘密結社は未だに存在している。今度は「世界埼玉化計画」を掲げている。作中における埼玉解放の物語が事実だったのか否か。定かではないが、「世界埼玉化計画」は明らかに被害者の求める世界観ではない。
冒頭での主人公は圧制に立ち向かう正義のヒーローなわけだが、最後の主人公は明らかに世界征服をたくらむ悪のボスなんである。「正義を手にしたヒーローは組織と権力を手にして、悪になった」という構図にも見えるし。あるいは「悪の組織がラジオという媒体で正義のプロパガンダを行っている」ようにも受け取れる。
実際、作中ではラジオの物語に感化され、感涙し、東京に住むことをやめた人々が現れる。その姿を見るに、後者の「埼玉を世界に普及せんとする悪の組織」の方がしっくりするんである。
俺はこの物語的展開を素晴らしいと思った。二時間ほどを使って観た映画として、完璧な時間だったと思えるんである。プロパガンダと思えば、そこまでの仰々しい衣装やわざとらしいストーリー自体も伏線であり、全てが最後に集約されていると理解することもできる。
埼玉を題材にしたギャグ映画ではあるのだが、そこにこれだけのストーリー的な転回があるとは思わなかった。実に素晴らしい映画だった。
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