今日ふと気づいたんである。うちの父親の話である。あるいは、普遍的なことかもしれん。
俺は実家暮らしである。母親がよくよくお土産を買ってくる人で、家族の好きなものを買ってくる。息子が好きだと思って、娘が、夫が好きなものを買ってきてくれる。シュークリームだったり、ポテトチップス堅揚げだったり、はたまた手ぬぐいやネクタイだったりもする。
影響を受けたんだろう。俺もどこかへ行って、ふと目に付くと家族にあてて土産を買ったりする。例えば、父親はあんみつや大学芋が好きである。ケーキや何かも好きだが、あぶらっこいしハイカラだ。昔ながらの甘いものがいいらしい。
はいよ、と渡していたのだが。本日会話のはずみで、父親が「息子はあんみつや大学芋が好きだ」と思っていることがわかった。俺が買ってくるからである。買ってくるから好き。そこには飛躍がある。
どうも父親の中では他人のために何かを無償で与える、ということがありえないらしい。確かに、あんみつも大学芋も一個ばかり買うのもなんだから、何個かは買う。あれば食べる。食うのだが、大好きだから食っているわけではない。ないのだが、父親の中では「好きでもないものを買ってきて食う」ということに合点がいかないらしい。
「自分が好きなものを買ってくるついでに、父親にも買ってくる」という理解になるんである。そうでなければ、わざわざ金を出してまで他人にものを買うわけがない、ということなんである。
この人は他人からの愛情や思いやりを全く受け取らずに生きてきたんだな、と慄然とする。「これは父親のために買った思いやりだよ」などと普通は口にしないものだが、言われなくてもわかるのが人間というものだろう。そう思っていたが、そうではなかった。言われないと愛情を受け取れない人間がいるのである。それも最も身近に。
別段、それで土産を買わなくなるわけでもないのだが。そうやって愛情を受け取りながら、全くそれと気づいていないということがあるのだな、という。これが本日気がついたことである。自分も別の瞬間に、別の事柄で同じ事をしているのかもしれない。それと気がつくのはなかなか難しいもんなのかもしれん。
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